ドゥブロヴニクを後にした
プーラのボランティア隊
チーム女子5人は
サラエボ隊に合流するため
ボスニアヘルツェゴビナへ国境を越えた
今回の話もちょっと重いので
楽しい話だけ読みたい方は飛ばしてください
雨が降り
真っ黒な雲が
サラエボの街を覆っていた
サラエボ隊のリーダーの
ふくちゃんが迎えてくれ
活動場所に連れて行ってくれた
私達の目の前に広がっていたのは
想像以上の惨状
地雷で亡くなった方の場所に埋められた
鮮やかな真っ赤なセメントの色が
今でも
目に焼き付いている
墓地が足りず
84年のサラエボ冬季オリンピックスタジアムも
墓地にされていた
お墓の隣では
黒い服を着た女性が
たくさん泣いていた
逃げたくなって
目を伏せて下を向いていると
ふくちゃんが
「目を背けてしまったら
何もできないよ。」
と一言
それは
頭ではわかっているけれど
直視できずにいた
自分達の
無知
無能
無力は
何の役にも立たない
ボランティアは
ただの自己満足で
こんな人間が
ここにいることすら
迷惑なのだ
そう思った
その思いすらも
ただの「逃げ」なのだが…
あれから26年
今年
久しぶりにサラエボを訪れ
一人でゆっくりと街を歩いてみた
かつて鮮やかだった
赤いセメントの色は
時の流れと共に
少しずつ色褪せていた
それでも
あの場所が語り続ける
悲劇の記憶は
街の中に
確かに残っている
「虐殺の証人ミュージアム」を訪れた
忘れてはいけないし
もっと知らなければいけないことが
たくさんある
遠い昔の話ではないのだ
1991年の旧ユーゴ崩壊を受け、1992年4月民族間の紛争が勃発したボスニア紛争。
1991年当時約430万人いた人口のうち、死傷者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった(出典:外務省ボスニア・ヘルツェゴビナ基礎データ)。
1995年12月和平合意正式調印をもって、ボスニア紛争は終結したが、国土は、ボスニア連邦とセルビア人共和国に分断、1998年夏に訪れたときは、終結からまだ2年半しか経っていなかった。
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