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ボランティアの現実と1998年のドゥブロヴニク│ゆきこのキセキ11

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ゆきこ
ゆきこ

今回の話はちょっと重いので
楽しい話だけ読みたい方は飛ばしてください

1998年
約3か月のプーラの難民キャンプでのボランティア活動は
実は
楽しいことばかりではなかった

戦火で家を失い
家族を失い
心に大きな傷を負った人々が暮らす場所…

1995年に
クロアチア独立戦争が終結したあと
自立して
徐々に避難所を離れる避難民たちもいて
クロアチア各地にたくさんあった避難所は
少しずつ閉鎖

そんな避難所を転々として
少しずつ取り残され
でも自立を果たせない
女性や子供たち、高齢者や障碍者など
社会的弱者の人々が500人ほど身を寄せ合う
施設も劣悪で
衛生状態も悪い
旧ユーゴ軍の元兵舎

将来への不安を心の奥深くにしまい込み
気丈に笑顔を装って暮らそうと努めてはいるけれど
花火の音など、ふとしたきっかけで
過去の恐怖がよみがえり
心の病から立ち直れない人々…

予想をはるかに超える過酷な現実に
鬱になっていく外国人ボランティアも
いた…

そんな
ぎりぎりの精神状態のなかにありながら
私たち、外国人ボランティアのことを気遣い
朝起きてきた私たちに

「オッキー(私のこと)!
パンが焼きたてだから、早く食べて!」と
朝3時半から起きて焼いたパンを届けてくれる人…

そんなクロアチア人のやさしさに
私は完全にノックアウトされてしまったのだ

ゆきこ
ゆきこ

難民キャンプでの話は
ご希望されるお客様にはお話させていただいています

そんな悲喜こもごもの
プーラでの難民キャンプボランティアの後
ビザなしで過ごせる最後の1週間のうち
3-4日は
サラエボ隊の応援にサラエボに向うことが
もともと決まっていた

残りの数日間の目的地は
ドゥブロヴニク

日本での研修から始まり、クロアチア渡航、難民キャンプと
約6か月をともに過ごした
20代前半のチーム女子5人

バスでドゥブロヴニクまで行き
少し観光してから
サラエボに行く計画にした。

今では想像できないかもしれないが
就職氷河期の真っただ中の当時
海外バックパック貧乏旅行や
海外ボランティアなど
人とは違う経験が
就職に有利と
もてはやされた時代

難民キャンプに滞在していた時は
食事が1日2回配給されていたのだが
それ以外の渡航費や諸費用は全部持ち出しの
ボランティア活動

いざ活動を終えると
全員節約を余儀なくされた

ゆきこ
ゆきこ

当時アイスクリームは3クナ(約60円)

それでも買うか買わぬかかなり悩んでたなー。

日本に戻るまでの持ち金が底をつかぬよう
それでも行くべき場所へは行きたい
クレジットカードを持っていなかったし
手持ちの現金が全てだった

そんなチーム女子5人
難民キャンプを出ると食べるものはパンのみ
ハムとチーズは贅沢品で
甘いものが食べたくなると
白い大きなフランスパンに
安い板チョコを挟んで
空腹と甘味欲を満たす術も覚えていた

10時間以上乗るドゥブロヴニク行きのバスには
パンとチョコレートだけ持ち込んで
乗り込んだっけ

当時
ドゥブロヴニクの城壁は
日本円で数百円くらい

城壁からの眺めがとても美しく感動した一方

スルジ山を見ると
破壊されたケーブルカーの駅の残骸…

心を支配する感情のギャップに
戸惑ったことが
今でもあざやかに記憶に残っている

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