私が初めてクロアチアを訪れたのは
1998年
NGOの難民支援ボランティア活動だった。
今回はちょっと脱線して、読み切り番外編をお届けします
クロアチアは独立戦争の際(注1)
たくさんの人が家を焼かれ、家族を失い難民となった。
私が難民キャンプで出会ったムーヨもその一人。
ボスニアのデルベンタで家族を失い
1人、難民キャンプで暮らしていた。
当時私はクロアチア・ボスニア語を話せず
ムーヨは英語を話せなかった。
なのに毎日ジェスチャーで話しながら
大笑いして時間を共にした。
そんな彼から
難民としてプーラの難民キャンプにいた状況を
やっと詳しく聞くことができたのは
2024年7月の昨日。
そう、ムーヨと難民キャンプ以来、26年振りの再会。
彼は92年から99年まで難民キャンプで暮らしていたが
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)により
99年にオーストラリアへ移民することを勧められた。
その時彼は21歳。
家族を失い1人だったムーヨは
英語も話せない不安の中、移民することを決めた。
オーストラリアに移民し
トラックの運転手として働いた。
とにかく我武者羅に働き、辛い状況を忘れたかったと…。
去年
ムーヨが日本で旅行している写真が送られてきた。
どのくらい振りのことだろう…。
そこにはこんなことが書いてあった。
難民キャンプで出会った日本のチームと笑いあった日々が
僕の心をどれだけ軽くしたことか・・・。
その時の思い出が美しく、日本に旅行に行くことを決めた。
そして日本に来て君たちを思い出してこのメッセージを書いている。
なんて美しい国なんだ!
本当に素晴らしい経験をしているよ!
そして何と!先週…
「今ボスニアに夏休みで戻って来たんだ!
やっと会える時が来たと思っている。
どこで会える?」と
旅行の日程を送ってきてくれた。
スプリットだけが重なる場所。
昨日、スプリットへムーヨに会いに行った。
ムーヨは英語を覚え
私はクロアチア語を覚え
お互い話せるようになって
初めて26年前の状況、思い出話、人生のことを話すことができた。
お互いこんな日が来ることは、まったく想像しなかった。
しかし、お互いの人生にとって
26年前の出会いが大きく影響していることは
間違いなかった。
そしてこれからの人生もどこかで重なるだろう…。
私の人生初めての海外は、オーストラリア。
そして初めてのクロアチアは、26年前の難民キャンプ。
人生の原点に立てたような気がした。
ここからまた気持ち新たに生きていこうと思う。
注1:1991年旧ユーゴスラヴィアから独立、1995年まで戦争が続いた
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